大切なのは議論で勝ち負けをつけるのではなく、より良い結果を導き出すこと

 

こんにちは、加治タケキです。

今回のテーマは、「何のために、議論をするのか」ということについて。

 

議論は何のためにするのか

議論をすることは非常にたいせつです。

お互いの意見を述べ合うことによって、あらたな物事の側面が見えてくる。

3人寄れば文殊の知恵とも言いますが、自分には思いもつかない意見を受け入れ、それをまとめていくことで、より良い結果、方向性を模索していく。

これが議論のあり方だと考えます。
でも、最近テレビや国会を見ていたら、議論になっていないものが多数散見されます。
ただ、自分の主張を通したい。
相手を議論で打ち負かしたい。
勝ち負けを決めるのは、ディベートの世界です。
それにもちゃんとルールがある。
以下引用はライフハッカーから。

https://www.lifehacker.jp/amp/2017/07/170704_book_to_read.html

 

論理で追い詰めすぎてはいけない

人は誰しも、自分を論理的に正当化しようとするもの。それは、自分が論理的でありたいと願っているからです。したがって、自分の論理を徹底的に破壊されると、自分自身が破壊されたような気がして、自尊心が傷ついてしまう。そして自尊心を傷つけた相手を恨むことになるわけです。

なお、このことに関連し、ここでは「北風と太陽の物語」というイソップ寓話が引き合いに出されています。

あるとき北風と太陽が、どちらが偉いかを巡って論争していました。

しかし、結論がなかなか出ません。そこで話し合った結果、目の前にいた旅人のコートを脱がせたほうが偉いということにしよう、となりました。

まずは北風が強い風を旅人に吹きつけ、力でコートをはぎとろうとします。

しかし、旅人は、風が強くなればなるほどしっかりとコートを身にまとい、剥ぎ取られないようにしました。

結局、北風はついに旅人からコートをはぎ取ることができませんでした。

次は太陽の番です。太陽は旅人に微笑みかけ、暖かい日差しを送り続けました。

その結果、気温は上昇し、旅人は熱くなってきて、しまいにはコートを脱いでしまいました。

この勝負は太陽が勝利を収めたのです。

(35ページより)

相手を論破して従わせようとするのは、強い風で旅人のコートをはぎ取ろうとするようなものだということ。強引に力でねじ伏せようとすると、人はそれに反発し、従うまいとするもの。相手を納得させようとするなら、北風のように徹底的に相手を攻撃するのではなく,

太陽のように、「相手がどうすれば納得するか」をまず考えることが大切だという考え方です。

 

まあ人間は強い力で押さえつけようとすると反発するものです。

相手がどうすれば納得するかを常に考える必要があるでしょう。

 

多くの場合、人は感情によって結論を決め、それを論理で正当化します。人を動かしたければ、論理で追い詰めてはいけないのです。

人を動かすためには感情を動かすことです。そして、議論において論理は、その結論を正当化するために用いるのです。(37ページより)

 

むしろ、人を動かすためには、理論で相手を説得するよりも、感情に訴えかけたほうがいいということですね。

 

人を動かすのは感情の働きですが、議論(論理)は理性の働き。議論とは正しい結論に到達するためのプロセスであって、人の感情を動かすためのものではないということです。だからこそ、この点を混同しないようにすることが大切。論理が支配する世界、いいかえれば理性が支配する世界においては、議論は相手を論破し、相手の主張を粉砕するまで行われることになるというのです。

 

最近のメディアでは、人の心を動かすために、感情を動かすような手法がたくさん使われていますね。

それは映画でも一緒。

緻密に計算された芸術作品にも、音楽にも、手法というものはあるのですが。

その後いいか悪いかを判断するのは、結局自分なわけです。
メディアが問題なのは、その情報がかなり一方的であり、その後に見ている自分が議論できないこと。
コメンテーターが議論してくれるのですが、それも感情的なものが多い。

結局、感情揺さぶりの攻撃を受けて、自分の頭で考えないでいると、メディアの意見がいつの間にか、自分の意見になってしまいます。

 

すべての議論は「よりよい結論」に達するため

日常生活においては、あらゆる場面で議論が行われます。家庭内で夫婦が、子どもをどこの幼稚園に入れるかについて議論する、会社で上司と部下が部署の方針について議論する、友人同士で同窓会の企画について議論するなど。ただし議論をしていると、自説を主張することだけに注意が行きがちになり、「なんのために議論しているのか」を忘れてしまうことが往々にしてあるものだと著者は主張しています。

たとえば、子どもをどこの幼稚園に入れるかについて議論しているときに、妻が、

「何よ、あんたなんかあの子の面倒を見てないじゃないの! こういうときだけ偉そうに言わないで!」

などと攻撃を始めると、夫のほうも、

「何だと! 誰のおかげでメシが食えてると思ってるんだ!」

などと応戦したり。

これでは、本来のテーマを離れ、醜い争いになってしまいます。

 

 

夫婦の感情的な言い争いなんて、よくあるケースですね。

目的は、子どもにとって、何がベストなのかを二人で議論して、より良い方法を考えることなのに。
国会なんかを見てても、議論するレベルにないなあと思います。
これは日本人が、感情で物事を判断し、意思決定の訓練を受けておらず、ディベートの訓練も受けていないことから来ていると思います。
意思決定の際に、誰も責任を取らない。

議論の方法も知らない。

「〇〇総理のもとでの法案成立には反対だ」

って、全く意味がわかりませんね(笑)
なぜなのか。
理由を裏付けるデータは。
そして、さらにそのデータを裏付ける、データはあるか。
議論する際に、
「お前の言っていることは間違っている」
「お前はバガだ」
そういう、全否定、誹謗、中傷、人格攻撃はやってはいけないんです。
議論をするのは、相手を打ち負かすためではない。
全体として、よりよい結果を導き出すために。
私も、改めて、心に刻みたいと思います。

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